社 寺 建 築

気仙の景観を高めたものに社寺建築がある。気仙大工達は家大工でありながら堂宮をも働く墨矩(すみかね)の技術を修得していた。辺境であるが故に本職の宮大工などを招聘(しょうへい)することなど思いもよらなかった。そのため、見よう見真似で会得(えとく)していった技術が認められ、何時の間にか出稼ぎ先でも依頼されるようになる。腕を磨くために京都や日光東照宮に出て修行をしてくればしめたもの、次々と仕事を覚えて瞬く間に気仙大工の名声を高めてゆくこととなった。
伊達領時代は領内に限られていた出稼ぎも、明治となり東北本線が開通すると、関東、関西方面まで集団で出かけて行く。彼らはいち早く西洋木造建築をマスターし、学校、公共建築など広く市場を獲得し、現在までその伝統を守り抜いている。恒常的な出稼ぎは外貨獲得の経済効果をもたらしただけでなく、先進地文化の導入者ともなった。長安寺伽藍や普門寺などの遺構は、長年にわたる出稼により得た、文化の反映と見ることもできる。

彫刻と細工

社寺建築の顔は向拝彫刻である。いかに建築のプロポ ーションが良くても装飾がなければ物足りなく感じ るものだ。なんでもできるさすがの気仙大工も、ここだけは餅は餅屋に任せ、彫刻師が彫った向拝は相 乗効果で、さらに建物の評価を高めている。

 

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