気仙地方と大工

気仙大工は岩手県気仙地方(藩政期は伊達領)の大工の呼称です。江戸時代から南行(なんこう)といって出稼ぎを中心とした大工集団をつくり、民家はもちろん堂宮から建具、細工もこなす多能な一団でした。
山がそのまま海に落ちる地形で田畑を作れず、あっても寒冷な気候がたびたびの飢饉を生みました。そのために手に職を持つ大工になるのが手っ取り早かったのでしょう。特に明治以後、商品経済の発達と東北本線の開通により出稼ぎが広範囲に及び、関東地方・北海道は言うに及ばず、遠く大陸に至るまでその足跡を残しています。
この人達がやがて故郷に帰り、錦を飾るような気持ちで新しい技術や工夫を披露したのです。こうして、他人とは違う独自性を重んじる気仙大工の気風が徐々につくり上げられていったのです。

 

有壁本陣(ありかべほんじん)

宮城県栗原郡金成町有壁(かんなりちょうありかべ)にある本陣跡・佐藤家は、現存する気仙大工の遺構としては一番時代的に古く延享元年(1744)の建造です。普請(ふしん)には気仙大工60人余があたったと伝えられています。
現在この建物は、国の史跡、宮城県重要文化財に指定されており、長屋門・御成門・玄関・書院等の表と、私宅である裏とで構成されているが実に堂々たるたたずまいです。
その当時、上り下りする大名や巡見使等の休泊の様を思い起こさせる一級の景観となっています。
その中にあって、気仙大工の特徴が随所に見いだされます。すなわち長屋門下屋根庇(ひさし)の下り船がい(くだりせがい)、戸袋(とぶくろ)の細工、書院長押のねずみ走り等が、概しておとなしい表現となっています。生々しいまでの自己表現は適度に押さえられ、ともすれば行き過ぎた感じになりがちなのをさらりと上品にまとめているあたりは快いばかりです。

有壁本陣 佐藤家

▲有壁本陣 佐藤家(宮城県栗原郡金成町有壁)

上段の間

▲有壁本陣上段の間

豪農屋敷(ごうのうやしき)

気仙大工の足跡は、旧伊達領を中心とした岩手県南部にも見られます。特に東西の磐井郡(いわいぐん)は後には、その技術を継承した大工が多く出て、自らも気仙大工と称したものが多かった。やはり、その手本があったということであろうか。
花泉蝦島(えびしま)の小野寺家は、近郊きっての豪農として知られ、代々肝入りもつとめていました。一関藩主田村候お忍びの宿にもなったというこの屋敷は、気仙大工40人で造ったと言われています。灌漑を兼ねる堀をめぐらした二重門構えの屋敷は、要害屋敷とも言われ、背後の築山と相まったロケーションは、現代の感覚においても素晴らしいものがあります。
本屋は扇垂木(おおぎたるき)のせがい造り、意匠を凝らした戸袋、欄間と十分にその特徴が見出せます。また屋敷内にある文庫蔵は大工と共に歩んだ左官屋の作です。現在「気仙壁」(後述)と通称しています。

▲堀をめぐらした小野寺家(西磐井郡花泉町)

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長安寺山門(ちょうあんじさんもん)

気仙郡は平泉藤原氏のころから相次いで金山が開発され、近世においても仙台藩の重要な鉱山が多いところでした。一攫千金(いっかくせんきん)をねらうものや刹那的(せつなてき)な人が入り込めば、どうしても喧嘩や争いが耐えません。
そういう金山に対して、多くの社寺が建てられるのは自然の成り行きでした。この地方だけで50ヵ寺ものお寺があります。その栄枯盛衰は激しく移転しています。創建以来動いていないのは大船渡市日頃市(ひころいち)の長安寺だけです。
長安寺山門は寛政10年(1798)の造営で、大工は小友村(おともむら)松山の五郎吉です。総欅(そうけやき)の高楼(こうろう)であるが、当時の仙台藩から、分不相応との咎(とが)を受け「欅ではなく槻の木」であると言い逃れの結果、途中で工事中止になったいわくつきの山門です。
この山門の偉容は、岩手県内の社寺の中でも極めて圧巻です。到底家大工が簡便になせる技ではないと思うのだが、寺の栄枯盛衰が激しいことはそれだけ建設活動がある事であり、その中で名を成すには吸収した技術をすべて出し尽くすことでもあった。「あれも知っている」「これも知っている」という形でアピールしなければ、腕が劣ると評価されかねない。一階軒は二軒(ふたのき)の繁垂木、二階軒は二軒の扇垂木と言うように違えたりすることも自分たちの存亡をかけた戦いだったのです。

▲長安寺の山門(大船渡市)

普門寺三重塔

海岸山普門寺(ふもんじ)三重塔もその線上にあります。しかしその作風は豪壮なものから一転繊細優美なものへと変わります。
文化6年(1809)に建てられたこの塔は、相輪(そうりん)の先端まで約12.5メートル。初層は二軒繁垂木、二層は全面に彫刻を施し三層は扇垂木を用い、各層の意匠を異にしています。
長年気仙大工を研究している大船渡市の平山憲治氏によれば、現代の堂宮師に聞いた事によると、この塔が作られたころ、この地域においても「木割り」の規矩が完成していたにもかかわらず、それを知ってか知らずか完全に「木割」の法を無視した造りになっているとの事です。何とも不思議な小塔であるという。 昭和50年岩手県指定有形文化財に指定されています。

●普門寺三重の塔(陸前高田市)
 
三重の塔 軒天井

気仙大工の技術

気仙地方における大工の系統は、東北工大の高橋恒夫先生が解明したように、本林流が基本となっています。
しかし、仙台藩の堂宮の大工系統は紀州です。また気仙大工が使用した各種の雛形本は、盛岡藩の御抱え大工の本林常将が著した「新撰早引匠雛形」の各編が最も多いようです。
現在の奥羽大工の手本として第一にあげなければならないのは岩手県和賀郡東和町の薄衣八百蔵の著書「工匠指針」です。これは建築編・規矩編・彫刻編に分かれているように、大工達に民家・堂宮から建具までやることが示唆されています。
ことにこの地方では、一人の大工が何でもできなければならないと言う需要がありました。専門の建具職人がいないところでは、大工が障子や板戸を作らなければならないし、欄間は言うに及ばず時には茶箪笥や長火鉢など、大都会ではとっくに分化して指物師として確立している分野まで手がけなければならなかったのです。
これが多能性につながったのであるが、何でもできると言うことは、広く浅くということでもありました。そしてその腕の冴えをすべてみせるような仕事をしなければ、「あの大工は大したことがない」と評価されてしまうのです。
写真の扇支輪天井にしてもS字にカーブする支輪を放射状に配するにはねじれが出てくるわけで、たいへんな技術を必要とします。また、この地方の家の戸袋は二重繁垂木、桝組にまた蟇股というように、極めて精緻です。これほど凝りに凝ったとしても、前者にしろ後者にしろ、建物全体の意匠としてはさほどでもない。建物の一部分に徹底して、自分たちの存在をアピールしたのです。

▲折上扇支輪天井

▲書院の欄間

▲透彫欄間(波にうさぎ) 小友町・華蔵寺

▲技工をこらした戸袋

▲長押の上蓋(ねずみ走り)

 

大工と左官

こういう工匠達と緊張感を保ち、勝負するような気持ちで木挽きが木取りに精を出したのですが、仕上げの段階で同じように呼応したのが左官屋でした。
西磐井郡花泉町に点在する「気仙壁」と呼ばれる土蔵があります。これらの土蔵は比較的新しく明治年間に建てられたものです。腰は石巻で産する稲井石か土を焼いた煉瓦で造られています。妻側の入口ないしは二階窓に入母屋造りの小屋根がかけられ、二重垂木の黒磨き白面取りは全て漆喰のコテ細工です。その上には唐獅子が対峙しています。
この左官は大工とともに気仙の職人で、この辺りの同様の蔵四棟を十年がかりでやったといいます。大工が大工なら左官もまた頑張らざるを得なかったのでした。

●千葉高郎氏土蔵(西磐井郡花泉町)

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近代建築と気仙大工

宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町は、伊達氏一門の城下町で、北上川を利用した米の舟運で栄えた町です。
今なお土蔵造りや、武家屋敷が並ぶ町ですが、その中に今なお明治初期の洋風建築が点在します。特に昭和56年、国の重要文化財に指定された「登米高等尋常小学校校舎」は、気仙大工が棟梁と脇棟梁を務めた建物でありました。
明治20年に完成したこの校舎は、建築家山添喜三郎の設計によるものです。彼は「政府御雇い外国人」であるG・ワグネルに従って、明治5年のオーストリア、同9年のフィラデルフィアの両万国博覧会に参加し、日本家屋の紹介などをしています。この二度の洋行で欧米の建築について見聞を蓄積したものと思われます。その後仙台に創設される紡績工場の建築工事に携わり、後宮城県に招かれて県庁技師として、この校舎を手がけることになりました。
コの字形、寄棟の校舎は、壁を真壁の漆喰に腰とし、窓や出入口は全て引き違いです。天井は棹縁天井とし、小屋組は洋小屋を用いています。玄関の柱各面には三本の堅溝(フルーティング)を施し、柱頭にはイオニア風の飾りが付いています。また、手すりや方杖の所々に洋風の彫刻や飾りが付けられています。
二階は屋根の軒を深くし、垂木の先には和風の鼻隠しを付け、洋風の彫刻が施されています。また一階と二階の中間には和風の霧よけ庇が付けられ、それが和と洋の微妙なバランスを保つ役目も果たしています。
基礎は松杭を二本三本と継いで、岩盤に達するまで打ち込み、その上に粘土、砂、石灰を混ぜたものを突き固め、その上に稲井石を据え、それに土台を乗せる工法をとっています。
また、柱と居、鴨居の取付は、伝統的なアリ組にしてあるため、今日でもなお曲がったり隙間が出ている所はありません。築後百年を経て、その間洪水や宮城県沖地震に代表される大きな地震にも見舞われましたが、ほとんど狂いが生じていないのには驚かされます。
監督としての山添は厳しく、屋根に使う瓦は一枚一枚重さを計り、これを一晩水につけて重さを計って吸水量を調べ、一定以上の吸水量の瓦は全て不合格にしたという。そのため瓦屋は家産を傾けたと言われています。また、木材にしても同様であったため、倒産した木材屋もあったという話が残っています。

▲旧登米高等尋常小学校(宮城県登米郡留町)

 

そんな中で、大工の苦労も並大抵なことではなかったようです。特に今までのものとは違い、洋風の様式であり、また、自分たちなりの技法やデザインは通用せず、それを出そうとすれば、山添にこっぴどくやっつけられたに違いありません。
気仙大工としての自尊心はいたく傷つけられ悶々とする日が続きました。「故郷に帰ろうか」とも思ったことがあるはずです。しかし、旺盛な好奇心と進取の気性は、やがてそれを克服します。彫刻といっても難しいものではないし、木材の仕口などはお手のものです。我流に走った時とか、自分の存在を誇示するような仕事をしたときに限って注意を受けるとわかってしまえば、造作もなかったことでしょう。
気仙大工としての主張はなくても、それは、新時代の文化を手中にする職人のたくましさであり、一世紀を経ても尚健在であるのは、技術の確かさを証明していることにほかなりません。そういう意味で「登米尋常高等小学校校舎」の明日の気仙大工に与える示唆は大きいものがあります。

昨今の木造建築界の低迷は、4,000とも5,000とも言う人数を要する気仙大工にとって将来にわたっても大きな問題です。この復権をかけて、技能訓練や伝統技術の講習会が行われ、第三セクターによる木造建物の供給や気仙杉の振興のため、組合の設立が推進されるなど、各方面いろいろなことがなされていますが、特に技術面に関しては広く他を求め、グローバルな視点を培うことが肝要です。
そういう意味で、建築家との知的コミュニケーションを図り、互いにフィードバックできる態勢が必要です。そしてそれは技術面だけでなく、それと関連する他の分野との連携を軸に、総合的な文化運動として、推し進めていくことが必要であろうと思われます。

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「日本四大名工・気仙大工」の記述は、(社)岩手建築士会の許可を得て、「建築・いわて紀行」より一部修正して転載したものです。
また、この章の写真はナガセ・フォトの永瀬圭寄氏の許可を得て使用しています。(一部は原版から、一部は「建築・いわて紀行」から直接スキャンしました。

 

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